WOR-HOLI NOTE

オーストラリア異文化体験記

サイレント・チェンジ

語学学校のラウンジで、アルゼンチンの同い年の女の子(っていうのもアラサーだしキツくなってきた。女性?)と話した。彼女に

メルボルンでもマテ茶飲んでる? どこかで買えないかな?」

とたずねたのが、会話のきっかけだった。
マテ茶とはアルゼンチンの国民的な飲み物で、彼の地に旅した際に気に入った、繊維たっぷりのお茶である。

マテ茶から話は広がり、ええ私は南米を旅したことがあって、すっごく気に入って、それでこれで……と、旅について語るときは普段より英語がスラスラ出てくるのはなぜであろうか。
とにかく壊滅的なスピーキング力ながら、話は続いたのだった。

彼女は言った。

「旅をしたいの、一人で。え、あなたは一人旅したの? ウワーオ、ナイス!  一人だと、自分の体験を自分のものにできるでしょ」

彼女はこうも言った。

「旅をして、違ったものを見て、違う環境に行ったら、いろんな見方が広がって、違った人間になるかもしれないでしょ。私の友達がそうなのよ。
だから私も旅をしたいの……」

彼女は鼻ピアスをし、タトゥーを入れた、アルゼンチンにはよくいる、日本にはあまりいないタイプの出で立ちだ。
しかし私はときどき、同じ格好をしたり同じ言葉を話したり、そうしたうわべの共通点よりも、旅人であるということのほうがむしろ、気持ちが通じる要素なのだと感じる。

このときも彼女の言うことは完全に理解でき、通じ合っているのを感じた。
それはコミュニケーションには気持ちが大事だとかそういうことではなくて、彼女の言葉は完全に自分の言葉だと感じられたのだ。
世界一周中にも、韓国人や中国人の同年代の女性と話していて、同じ気持ちになったことがある。

不思議な感情。
言葉にすると陳腐な感じがするけれど、そのたびに胸が熱くなった。

*****

その直後、毎日朝食を食べながら少しずつ読み進めた小田実『何でも見てやろう』(講談社文庫)を読み終わった。

アメリカ留学と貧乏旅行の紀行文で、元祖バックパッカーズ・バイブルである。

このあとがきに小田実が記していた文章が、アルゼンチンの女の子との会話を思い出させた。

《『何でも見てやろう』の旅に出かけていなかったら、私もそんなふうなインテリの一人になっていたに違いない。
……
今の私がそうした私よりかくだんにすぐれていると言うのではない。
ただ、ちがっている、ちがった存在になっている、ということを言いたいのである。
そして、そのちがいは私にとって何よりも重大なのである。》

世界一周から帰った後、人が戦争で理不尽に殺されるのはおかしいとか、人種差別は許せないとか、人は平等だとか、私は自然にそう思うようになった。

思うというより、理解したというか、感じたのかもしれない。

旅しなければたぶん、貧しい人間や差別された人間がいても仕方ない、マイノリティは運が悪かった、くらいの認識のままで生き続けていたと思う。

アルゼンチンの女の子が言っていた「違った人間になる」という現象は、私にも起きているんだろう。それは外からは決して見えず、私もこれまで気づかなかった。

でもその違いは私にとって大事なものだと思った。

 

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(旅ではときどき、見ろと迫る何かに出会う)

 

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