虹と難民 ⑵
州立図書館の前で配られたビラには、数日後、同じ場所で、難民の待遇についての演説をすると書いてあった。
その日その時間、図書館の前に行ってみると、難民キャンプで死んだ人々の写真が掲げられていた。
聴衆はさほど多くなかった。
しかし景色に溶け込んでいて、「あ、何か運動をしているな。関わらないようにしよう」と感じるような、浮いた感じもしなかった。
彼らは難民を受け入れないことについて、「これは我々の国家にふさわしくない」と思っている。
日本で同じ問題が起きたら、果たして「難民を日本に! 東京で受け入れよう!」という声が上がるだろうか?
オーストラリアは国家として統一されてからまだ100年そこそこであり、アイデンティティの拠り所となる歴史が浅いという見方もあるし、今はLGBTや難民も含めた多文化主義に、誇りを見いだそうとしているにすぎないのかもしれない。
しかしこの有り様はどうだろう。
私にとって州立図書館の前で見た「虹」と「難民」は、とてもショッキングだった。
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私が感じたショックは活動の内容に対してではなく、きっとこのとき、ここが異国だと初めて認識したからだと思う。
メルボルンには中華街も日本食レストランもそこら中にあり、1日に何度も日本語の会話を耳にし、生活水準やスタイルも日本と大きな違いがなく、とりたてて外国という感じがしていなかった。
しかし、「虹」と「難民」を受け入れようとする姿は、強烈に異文化な光景だった。
日本人が日本人としての連帯感を持つのは、血のつながりや人種的な同一性が条件だろう。
だが「他文化を受け入れる」ということも、国民感情になり得るのだ。
ちょうど日本とオーストラリアが赤道をはさんで南と北に位置するように、彼らは日本人とは正反対のメンタリティを持っているのかもしれない……。
(酷い扱いを受けている難民に対してのメッセージ。ミャンマーのロヒンギャについても、受け入れを呼びかける声があった)